はたして言葉は神だったのか?

「はじめに言葉ありき」というのは聖書に出てくる有名な一節ですが、この後に「言葉は神とともにありき。言葉は神であった。」という文字が続きます。

この意味を考えてみても、ちょっと意味がよくわからないはずです。宇宙のはじめにあったのはビックバンなんじゃないの?とか考えてしまいますし、人類が地球に出現するずっと前の太古の時代から言葉があったとは到底思えません。言葉は人類が最近になって発明した便利な道具であって、はじめに言葉があったわけではないはずです。

一方で、もし言葉がなければ、人類はまだ猿人類のように暮らしていたはずです。「あーあー、うーうー」いっているだけでは言葉や文字は出現しなかったでしょうし、文明や科学もまったく発展しなかったことでしょう。

もし言葉がなかったとしたら、人類が月へ行くこともなかったでしょうし、車もなければ電気もない、会社もなければ、都市も何もなかった原始的な生活のままだったはずです。逆にいえば、言葉には神がかりといってもよい程のとてつもないパワーが秘められていることになります。

「言葉は神であった。」ということは、すなわち神は言葉だったと同じ意味です。

そして、この神である言葉を自由自在に使っているのはわたしたち人間だけです。つまり、私たちは言葉を使うことによって常に神と共にあることになります。

なので、自分には到底達成が不可能にみえるような目標に感じても、その夢や希望が大きすぎるということはありません。神にとっては小指をひねるほどささいなことですし、私たちは言葉をとうして、その神の力と常に共にあるからです。

100万円が欲しければ、「100万円ありがとうございます。」とずーと言葉に出していってればよいのです。
彼女が欲しければ、「彼女がいて幸せだな。」とかずーっといってればよいのです。

ただ、全知全能の神にとって、100万とか彼女とかのしょぼい目標を掲げるのはかえって失礼かもしれません。100億円ぐらいの気持ち強めの大きな希望をいっとくのがよいでしょう。

ここでポイントになるのは、夢や希望は常に過去形で言葉にするということです。

「100万円が欲しい。」とかいってしまうと、「そうか、100万円が欲しい状況になりたいんだな。たやすいことだ。」ということで、100万円がどうしても必要になるような困った状況が次々に出現してしまいます。

僕はキリスト教徒ではなく仏教ですが、坊さんが念仏や題目などの言葉をずっと唱えているのは、言葉は神であるからだと考えています。いずれにしても、言葉には気をつけたいものですね。